-
おそらくキクユのような眼科病院は、運営するのに莫大な資産が必要になってくると思っているのではないでしょうか?
さて、それではキクユ眼科病院は、どのように運営されているのでしょう?
-
眼科性疾患は完治できるのだという情報が広まるにつれて、外科医、アシスタント、ナースの数がさらに必要になってきます。
-
ジープでどこにでも行けるわけではありません。地域によってはとても遠く、陸路では時間がかかりすぎたり、飛行機でしか行けない場所もあります。そういった場合、広範囲での初期検査を実施することが難しくなり、アウトリーチプログラムで一般的な、手術が必要な患者を一週間後にキクユまでつれて帰るのが不可能になります。
-
いろんな道がキクユに通じています。ケニアにいる、目に病気をもった人々の間にキクユの存在は大きくなっていており、多くの人がナイロビの近くにある眼科病院のことを知っています。そこの噂をききつけ、たどり着き、(すでに説明したように)治療を受けているのです。しかしながら、まだまだ多くの視力を失った人がケニアにはおり、キクユ眼科病院の存在を知りません。
-
話はキクユにもどります。もうそこで何が行われているのか、目の病気や失明をなくすために、非常に注目をあびていて、財政的な援助を受けているのは想像できるんじゃないでしょうか。キクユ眼科病院ではケニアにとって、カギとなる役割をになっているのです!そこにはもちろん、お金がかけられていますが、産業が発達した国と比べると、その額はけっして驚くほどではありません。それでも、いまだにそういった国に十分に援助できるだけの財政的援助はありません。
-
多くの子どもが、栄養不足の結果、ビタミンA欠乏症となり、視力を失っています。アフリカの様々な地域の家庭では、必要な量の食事をとることすらままならず、そうしてビタミン欠乏症に侵されるのです。
-
白内障はこの物語のはじまりでもなければ、終わりでもありません。もっと多くの病気があり、驚くほどたくさんの人がさまざまな病気で苦しんでいます。
-
おじいちゃんやおばあちゃんが、白内障にかかったことがある人もいるとは思いますが、白内障とは、視力が低下からはじまり、さらに悪化していきます。親戚があつまると、白内障の話題がでることもあるんではないでしょうか。徐々に視力が低下していく白内障は、その理由がよく表現された印象的な名を持ちます。
-
東経34~42度、北緯5度 (ちょうど赤道の下!)
そこにケニアがあります。
-
まず、Kikuyuというのはケニアで一番大きな民族のことです。彼らは、オーストリアとスイスそれにオランダとドイツを合わせたサイズの国のあちこちで生活しています。彼らはおもに農業をして生活しています。農業がもっともケニアで盛んな仕事なんです。伝説によると、数百年前のギクユという名前の男性がキクユの由来になったそうです。
-
発見すること、認識すること、理解、赤、緑、青、紫、フォーカスすること、あいまいなもの、明るさ、暗さ、小さい、大きい、下、上、曲がってるもの、斜めのもの、すっきりとした目覚め、死ぬ程の疲れ、カラフル、真っ黒、魅力的、イルミネーション、恥ずかしさ、陽気さ、理解できないもの、普通じゃないもの、奇妙なもの、反転、ねじれ、風変わりなもの。
私たちは目をつかって、色んなことを行っています。そして、ここに挙げたことは全部、視力があればできることなんです。
-
特別なLomography projectについて、もっと深く知ってください!
-
あなたにも誰かの視力を守ることができます。しかも、ほんの少しの金額で。
Lomo Kikuyu bookでは、アフリカ、ケニアにあるKikuyu Eye Clinicのファンタジックなストーリーを読む事ができます。それは、何百、何千もの目の病気から救われた人々の物語です。そこでは、目の病気だけでなく、多くの、ホントに多くの人の人生も救われているのです。この本のなかでは、目が見えるということの、実在的な重要性について説明されています。ロモグラファーにとっても、人ごとじゃないですよね?
-
ウィーンにおけるロモグラフィー人気に押されて、ロモグラファーはロシアのLOMO PLC の Lazar Zalmanov との会談を決意しアポイントメントを取った。彼らは就職活動用の初々しいスーツに身を包み、アエロフロート・ロシア航空で一路サンクト•ペテルブルクへと向かった。彼らのミッションは只1つ:LOMO LC-Aの生産の存続を求めることだったのだ。
-
LC-Aを巡る歴史の中で存在した、希少モデルのLOMO LC-MとLC-M2。 LOMO LC-Mと同じようにLC-M2はごく少数しか生産されず、ほとんど手に入れることはできませんでした。そして、もう1つの希少モデルのKRABとは一体何なのでしょうか?KRABはLC-A用の水中ケースです。しかし、この隠れた製品の問題は、サンクトペテルブルグにあるLOMO PLCの自社博物館ですらもこの1.5kgの重たい鋳鉄の存在を今なお否定している、ということのようです。
-
現代では製品の予算の多くを広報活動のために使いますが、それは昔のソビエト連邦では考えられないことでした。当時のLOMO LC-Aのパッケージは面白みがなく、小麦粉の袋と見間違えるほどだったそうです。それにもかかわらず、ソビエト連邦の市場でLOMO LC-Aの右に出るものはいなかったのだそうです。
-
LOMO LC-Aは前身のモデルには無かった初の自動露出機能を備えていたため、フルマニュアルのSmenaやLubitelよりも高い価格にならざるを得ませんでした。しかし、それにもかかわらず、LOMO LC-Aはすぐに人々の心をわし掴みにし、彼らのポケットへと入っていくのでした。
-
日本のCosina CX-2を元に作られたLOMO LC-Aは、1984年にソビエト連邦の一般大衆向けに発売が開始されました。 当初は、ロシア市場のためだけに毎月1,100台ものカメラが製造されていました。製造時の困難な道の先に待っていたのは、LOMO LC-Aのためのバラの花畑でした。
-
1984年にLOMO LC-Aの初のロットが想定した生産の中のささいな問題が生産の間に問題を引き起こしました。膨大な研究の後、いくつかの初のLOMO LC-Aに見られた様々な欠点は、最終的に解決され、皆に愛されるLOMOカメラはついにロモグラフを生み出せるようになり、知られるようになりました。
-
LOMO LC-Aの母であるOlga Tsvetkova
Olgaは大学を卒業するとすぐにLOMO PLC に入社しました。彼女はポーランドで教育を受け、その後サンクトペテルブルグ大学で6年間掛けて科学技術の博士号を取得しました。そして彼女はWorkshop 61というSmenaカメラのワークショップに参加し、その後1970年代初頭からLomo 135 camera projectの一員として、Mikhail Kholomyanskyと共に働き始めたのです。Lomo LC-Aが大量生産の段階に入るとすぐにOlgaは、その当時のカメラ製造ラインの主任ポジションからLomo LC-Aのチームリーダーとしての仕事にうつりました。