深掘り:フィルム写真とAIの台頭
1 2 Share Tweetこの数年、人工知能は私たちが消費する多くのメディアの中に侵入してきているように見えます。
特にミームのような娯楽コンテンツでよく使われてはいましたが、多くの人は人工知能の機能に警戒や恐怖を覚えていました。しかし当然のことながら、その倫理的な配慮の点においては、メディア開発者やアーティストといった特定のグループにとっての関心のテーマです。
この深掘り記事では、AIとフィルム写真についてのディスカッションを設け、双方の差異について模索します。
歴史を振り返れば、パイオニアたるべきものや常識を大きく覆す可能性を秘めているものというのは、常に疑惑の目と対峙してきました。昨今の技術革新というのは、メディアの消費行為、特徴的なメディアによる一方通行的なコミュニケーション、私たちのようなクリエーションに直接参加できたり、情報を拡散できる消費者といった生活を、急速に変化させています。
また、現行の法律では、AIの危機に関する事項を取り上げられてこなかったですが、そのインパクトがゆえに必然的に、AIそのものを規制したり、発展にある程度のブレーキをかけるイニシアチブをとるAIツールの形成といった、チェック機能やAIの発展と共に使用に関する調整がもたらされるでしょう。既にこういったものが導入されている現場もあります。
かなり壮大なテーマではあるので今回は、AIとの直面でフィルム写真のようなアナログな行為が、生き残るだけでなく発展すらするポテンシャルについて焦点を当てたいと思います。
何がフィルム写真をユニークたらしめているのか考えてみましょう。実際、それはおそらく他のアナログな行為にも関連したものになるかと思います。35mmc というブログで公開されたとある記事 でアーティストである Joseph Tan がAIに対するアンチテーゼとしてのフィルム写真というテーマで完結に述べており、私たちも同意するところです。
フィルム写真は実体的なものと人間的なものを結び付け、私たち人間は、人間的な経験を求めることをあらかじめプログラムされています。
アナログの新しい役割
2002年、私たちはフィンランドのフィルムフォトグラファー Ari Jaaksi をインタビュー しました。そこでは、膨大な知識を通して、デジタル時代におけるフィルム写真の新しい目的について言及しました。:
デジタルは、退屈な日常のタスクからフィルム写真を開放しました。ーそしていま、フィルムはこれまで時間も自由もなかった場所へ行けるのです!私たちアーティストにとって、フィルムとはまたとない自由とクリエイティビティ、私たちの内なる魂を表現するためのツールをもたらしました。
フィルム供給者側からすると変動的でまた別の議論となってしまいますが、この楽観的な見解は、フィルム写真が技術や技巧の重要性を裏付けているものです。
AIに対するアンチテーゼとしてのフィルム写真
アナログ写真とは、私たちのクリエイティビティに刺激を与えるだけでなく、関連し関心をもつ幅広いコミュニティとつながる可能性も秘めています。比較的、慢性的にオンラインに依存したり、デジタルスペースに没頭することは実際の経験としての欲求を妨げてしまいます。そして私たちは通常、長期間の孤独を経験するようにできていないため、絶望感を悪化させる可能性があります。
豊富なオプションが潜在的に情報過多や選択のパラドクスといわれるものを導き、それらがアイデンティティの喪失感や感情と個性の乖離へとつながるように、ヴィジュアル世界への没入さえ、そのような困難を示しています。
まとめると、私たちがAIにとって代わられるか否かの不確実性に特徴づけられるテクノロジー主導の社会では、フィルム写真のようなアナログな行為に対する関心が増したり刷新されるだけでしょう。技巧のようなクラフトは、その瞬間オリジナルなものを創るプロセスの中に私たちを参加させるだけでなく、同じ関心、感情をもった人々のグループとつながることを可能にします。
他者の体験は、自己の体験の裏付けになります。曲を聴いたり、感情を揺さぶる詩を読むとき、私たちは言葉の先を感じ思いを馳せたり、アーティストの制作背景を垣間見ることもできるんです。つまり他者とは、私たちと同じ悲しみ、怒り、憤り、孤独、高揚感、郷愁を経験し、それゆえに私たちに自分自身の幅広い感情を感じる自由を与えてくれるもう一人の人間なのです。
イメージにおいても同じだと思います。私たちはしばし、印象的なものをみて、「他の誰かもこれを経験したんだ」という事を考え、言葉にはできない繋がりを感じることがあります。
AIによる作品には私たちを感動させ、驚かすことができないという事ではありませんが、私たちのように根本的な繋がりをもつもの、つまり人間から生み出されたものに満足感や価値を見出す傾向にあるということです。
AIがコードを生成し、記事を書き、「写真」というものを私たちに提示したとしても、私たちの深い人間性へつながりたいという欲求は残るものです。
私たちがかつて生きていたという事を保証する実際の写真のように、AIが、私たちが完全に共鳴するような方法で私たちの経験を記録することは困難でしょう。AIのようなシステムが生成した者に対し、私たち自身や他人が創造した実際物には、何か不思議なものがあります。
もしAIが「写真」や、似たような経験を詳細に示した詩や曲を生成できたとしても、一度そのイメージや詩が、私たち同様の感情のスペクトラムをもった実際の人間ではなく、AIに生成されたと知ってしまったとたん、その背後にある共感性の減退という問題があるでしょう。
AIの完全性 vs 人間のもつ経験
フィルム写真は、特定のカメラや特定のフィルムを選ぶことから、どのタイミングでシャッターを切るか直観に従うまで、周囲の環境をもまきこんだとても身体的なプロセスです。プロセスを通し、自発的に、厳格になったり、実験的になったり、はたまた完全にはコントロールできないことを許容するといった、様々な側面において私たちは成長していくことを学びます。
人間のもつ経験とは予測不可能な物であり、近い将来AIの完全性を求める世界において自分たちを見つめることに限界が来ることで、私たちがより共鳴できるものを探すことになるでしょう。
多くの場合、完全性は未だに不満を育んでいます。私たちの知覚においてあるものがあまりにも「完璧なもの」になってしまったり、私たちの手の届かないところにあるとき、疎外感や神秘に埋没する結果となります。それこそが、最新のカメラで高解像度のイメージを創れたとしても、ロモグラフィーらしいイメージが未だに多大な価値を有している理由のひとつでもあるのです。
結局のところ、実際システムやプロセスというものは私たちに利益を与えており、私たち人間の好奇心は私たちの生活を変える方法を生み出すことを促します。しかしその核として、現像やプリントをするまでどのようになるかわからないまま写真を撮るように、人間の経験とは乱雑であり、カオス、時には「ミス」としてカテゴライズしてしまうような驚きに溢れてます。
私たちは、単純に探究することや、確固たる自己を確立することへの寛容さを与えられ、変化に富んだこの乱雑な私たちの生を表現し記録したいのです。そして、この経験を人々に共有をしたいものなのです。
私たちの生活とAIとの統合を阻むことが困難なように、AIも、フィルム写真のようなアーティスティックな探求といったクリエイティビティを通し、私たちの生をユニークに記録する個性なるものにとって代わることは難しいのです。
AIとフィルム写真についての考えをお聞かせください!
1 Comment